日本画家であった父『脇田畦牛』

脇田畦牛の作品 アトリエ

脇田六瓶の父で、日本画家の脇田畦牛を紹介します。

脇田畦牛(ワキタ ケイギュウ)

脇田畦牛
脇田畦牛 27才頃(1938年 昭和13年)

本名は文雄(ふみお)で、画家が本名以外につける風雅な名の雅号は畦牛(けいぎゅう)です。
1911年(明治44年)に、今の愛知県一宮市である愛知県葉栗郡浅井町尾関で生まれています。同じ明治44年生まれは、内閣総理大臣となった鈴木善幸氏やEXPO’70・大阪万博のシンボル「太陽の塔」でお馴染みの岡本太郎氏がいます。

その後、岐阜公園近くの岐阜市今町に移り住み、日本画家・友禅職人でありました。
日本画家として、水墨画家・日本画家の杉山祥司先生と日本画家の朝見香城先生に師事したと脇田六瓶の母より聞いています。

1942年(昭和17年)に脇田六瓶はこの岐阜市今町で生まれ、その翌年1943年(昭和18年)に脇田畦牛は亡くなりました。

脇田 畦牛 1911年~1943年
・本名:文雄(ふみお)、雅号:畦牛(けいぎゅう)
・1911年(明治44年) 愛知県葉栗郡浅井町尾関(今の一宮市)に生まれる。
・その後、岐阜市今町(岐阜公園近く)に住む。
・日本画家、友禅職人
杉山祥司先生(岐阜市、水墨画家・日本画家)と朝見香城先生(名古屋市、日本画家)に師事
・1943年(昭和18年) 死去
脇田畦牛と作品「灯ともし頃」
脇田畦牛と名古屋汎太平洋博美術出展作品
(1937年 昭和12年)
脇田畦牛
脇田畦牛 28才頃(1939年 昭和14年)
※右から2人目
脇田畦牛と杉山祥司先生(岐阜実科高等女学校)
脇田畦牛 28才頃(1939年 昭和14年)
※最後列 左から2人目

岐阜実科高等女学校(今の済美高校の流れ)の校舎前で昭和14年に撮られた集合写真で、最後列の左から2人目にスーツ姿の脇田畦牛です。また、最前列の7人目は日本画家の杉山祥司先生も写っています。
この写真で少し気になったのは、背景に移っている校舎にハートのようなマークがいくつも見えます。一瞬「日の丸」に見えましたが、どうも日の丸ではなさそうです。

脇田畦牛の残っている作品

脇田畦牛は、脇田六瓶が1才の時に若くして亡くなりました。

遺品には、写真やスケッチブックなどの小さな作品が少し残っていましたが、父 脇田畦牛の描写力・絵画力が優れていることを知り、脇田六瓶は強く影響を受けました。

脇田畦牛 スケッチブック
残っている畦牛のスケッチブックなど

岐阜県 日本画 郷土画家・画人名簿に名前を見つける

「岐阜県 日本画 郷土画家・画人名簿」という本に、「畦牛」の名前を見つけることが出来ました。

この本は、岐阜県(美濃)の画家名簿をひとつの本にまとめたもので、1980年(昭和55年)に発行されています。「第一部 明治以前生年の日本画家・南画家・文人画家・俳画家・劇画家」には532人の中に、「畦牛」がありました。また、杉山祥司先生も見つけることが出来ました。

岐阜県 日本画 郷土画家・画人名簿
・雅号:畦牛(けいぎゆう)
・氏名:脇田
・生年、没年、住所、経歴など:岐阜市
・師匠名、流派:空欄
岐阜県 日本画 郷土画家・画人名簿
・著者:青木弥太郎
・発行:美濃南画会(岐阜県大垣市南高橋町)